学校で勉強する意義について考える

先日、とある大学生と議論した時の内容です。
「学校の授業は面白くないし、なんの役に立つかわからない。なので私は学外に勉強の環境を求めました」
という意見を主張されて、私なりに色々考えたことをまとめようと思います。

第一にまず私が思ったことは「なら学校に行かなければいい」です。
そもそも大学は高等教育です。小学校などで、集団として最低限のコミュニケーションや社会生活を営む上で必要な知識を学ぶことは自分のためでもありますが周囲のためでもあります。社会というシステムの恩恵を受けて生きていきたいならそれに沿う形で最低限の素養を身につけておく、つまり学ぶ義務があると見做すことはできるでしょう。しかし高等教育を受けるかどうかには選択の余地があるはずです。選択した主体がたとえ自分でなくて親だったとしても契約の主体は自分であり、大学からすると「○○さんから契約の要請がありましたため、授業料を納付する代わりにサービスを提供いたしましょう」と考えるのが自然である。ここで重要なのは大学というのは「授業料を納付する代わりにサービスを提供する」システムそのものであり、そのサービスが魅力的かどうか、授業料に相当する価値があるかどうかは契約を申請する人が決めるべきものです。つまり学生によってその目的は違うだろうし、実際に大学に所属してみて、あまり魅力的に感じないのならばやめればいいだけです。成人していない人がいくらかいるといっても、契約とかよくわからないので私には責任ありません。なので不満を言わしてもらいます。あなたはこの不満を改善する義務があります。というのは少々無理があるような気がするのです。授業で学ぶことがなんの役に立つかは初めから見出してから大学に来るのが理想です。

しかし、このような意見が出てきてしまう現状があるということは考慮しなくてはならないとも思います。日本では中学校までが義務教育と見なされていますが、事実上高校進学も同種のようにみられています。中学の時点で自分の実力を客観視できて人生のビジョンが見えている生徒は稀ですので(集団を考える立場で特異な例にターゲットすることは現実的ではありません)中学校時代の生徒の保護者・先生(お金の出資者と評価する主体)がその進路を決めることになります。現状の社会では契約の繰り返しで生活をする必要があり、契約の武器を持っていない人が本来の社会の枠組みに出て行くと淘汰されるのは目に見えています。自然とその生徒が社会で戦うだけの実力がないと見なされれば学びの環境へと送らされるわけです。子供はそうしてお金を与える主体(今の社会で言えば企業)から受け入れられる(社会で戦える力を持つ)まで学習し続けることになります。企業の受け入れの基準に高卒以上を据えている限り、自分の学ぶ意思のあるなしに関わらず大学などに行くことになるわけです。このような経歴を持つ人生を送ってきたであろうということは相手が日本人であればおおよそ当たっていることになります。相手の価値観や環境を理解すれば正論を持って頭から否定しても受け入れられないことは明白でしょう。

シンプルな解決策としては、学習の過程で学習の意義を教えてあげることです。ですが将来のビジョンが見えていない(何をしたいかが決まっていない)のにあなたにとって役に立つことを主張するというのは何という無理難題かとは思いますが、、、このような学習を続けて行くと、「できるから、これをやろう」という発想になってそのうち「授業で習っていないからできない」「やり方がわからないからやらない」みたいな人が育って行くのかもしれないです。「これをやりたいので、やり方を調べよう」「必要な知識がないので、勉強しよう」みたいな人が自然発生する教育はどのように実現すれば良いのでしょうかね。

今までは上記の論理が正しいという前提を置いてきましたが一度疑っていましょう。実は穴がたくさんあります。それを一つ一つ検証してきましょう。

第一にそもそもお金を与える主体が企業であるという点が疑わしいです。多くの人は「自分が生活していくためにはどうすればいいか」と考えます。今でこそ企業に入りさえすれば稼げるという前提があるため「生活する=就職する」という常識が生まれましたが戦後の日本や発展途上国などではそもそも自分を保護してくれる企業がありませんでした。どうあがいても生活していかなくてはならないので自分から仕事を探すのです。私は今の起業家文化は原点回帰だと考えています。お金を稼ぐツールとして企業の魅力が少なくなったため、企業文化ではなくかつてのやり方にターゲットされているのだと思います。私が「魅力的でないならやめればいい」みたいな考えを主張する根底には昨今の起業家文化に触れて生活しているという側面もあるのでしょう。

第二に義務教育で学ぶ範囲はどこまでかということです。私は義務教育は「社会の恩恵を受けるため、他の社会人に過度の迷惑をかけない程度の素養を身につける教育」としています。目的を自分への投資だけではなく、社会的意義も付与しているのです。ともすれば義務教育の範囲は社会人としての必要な能力のボーダーに依存することになります。個々人によって理想の社会の解釈は異なりますし、時代や場所によって実際の社会も異なるので一概には言えないです。「私はこのような社会を考えていますので大学は義務教育だと思います」と主張されたら反論できません。今の日本社会では中学校の学習指導要領までが義務教育だとされているようですが

シリコンバレーでは大学と企業の人材の循環があります。大学の教授が企業に就職し、しばらくしたら大学に戻ったりします。企業で成功した人が大学の教授として迎えられたりもします。教授は勉強の意義をアカデミックな立場で把握していますが学生は必ずしも教授と同じ目的を持って大学にいるわけではありません。しかし万人に共通して「生活できる力を身につける」ことは興味関心の対象です。アカデミアな組織としての大学でビジネスをするというのは一考の余地がありますが、ビジネスというのが大学と学生のノリのような役割を担えると学ぶ意義を見出しやすくなるのではないでしょうか。アカデミアとしての大学と肩を並べるような、ビジネスとしての学びの場という目的の組織ができてもいいかもしれませんね。インターンシップや産学連携というのもこういうモチベーションがあるのだと思います。

日本の企業経営について考えてみる

ドーナッツ化現象
先日、コンサル関係の仕事をしている人から聞いた話が衝撃だったので少し考えてみたいと思います。その方によると今日本の大企業で経営層の「ドーナッツ化現象」というものが起きているそうです。普通ドーナッツ化現象といえば人口分布が大都市周辺において高くなる現象のことを指しますが、ここでいうドーナッツ化現象とは「企業の舵切りを企業外の人に任せる」ことを揶揄したのだと推測しました。経営層の重要な部分が抜けている=真ん中が抜けているということなのだと思います。
10年ほど前まで日本の製造業は比較的安定した成長を見せていました。家電やパソコン・デジカメなどの市場は大手企業がシェアを占め、定期的に新しいモデルが登場しそのたびに「新しい技術だ!」と日本の消費者にニーズを作るというある種の販売の型ができていました。安定して利益が生まれるという意味では企業に都合のよい販売戦略であり、実現できる販売市場が存在するなら自然な傾向だったとみることもできます。
しかし「新技術」の誕生は発明の一種です。いくら研究開発に企業が投資していても定期的に生み出されるはずもなく、公にこそされていないにしてもかなりの数の企業が
・新技術を小出しにする
・業界では当たり前の手法をあたかも新技術のように宣伝する
といったことが行われていたと思います。(後者に関しては営業の領域であり、何時の時代でも行われていたことです。現在の「AIを使った〜」がそれに当ります)
ところがインターネット環境のインフラ化・ラピッドプロトタイピング(3Dプリンタなど)・計算機パワーの向上などに伴って「既存の枠組みにとらわれない」製品やサービスが生み出されていくと、従来では見向きもしなかったような企業が突如競合会社に変わったり、いわゆるベンチャー企業がその柔軟性と開発速度の早さから大企業に匹敵する存在になるケースが生まれてきました。
大企業のもつパワーというのは高度な技術とブランド力(=信頼性)、既存の市場におけるシェアなどです。まったく違う分野の競合の登場によりその市場を取るために必要な技術がそもそも変わったり、インターネットの普及による新しい市場の開拓や拡大により、ベンチャーの入る隙を許してしまったことになります。大企業のもつ大きな力がそのままシェアにつながる時代ではなくなってきたのです。かつての大企業のライバルは同じ分野の他の企業のみでしたが、今では異分野の企業が加わってきただけにとどまらず、まだ会社に入ってすらないような学生なども含めた起業家精神を持つ世界中の人がライバルになってしまったのです。そうなってしまうと大企業は自然と不利になります。なぜならば「この後の未来はこうなっていくだろう」ということを考える人の数の分母で圧倒的に負けているのです。
一人の天才と多数の凡人はどちらが強いのでしょうか。多数の人はその人の数だけ同時に考えることができ、その人の数だけ多様な視点を持ちます。しかし世の中の大多数の人は今までの人生で自身の根拠としてきた社会的なものさしや、知らず知らずのうちに「当たり前」だとおもっている前提に気づくことができません。また共通言語や電子記録媒体の発達により知識を共有する方法が発達してきても、それらを共同体全てが把握することは相当のコストがかかります。同時に考えることができてもその結果を一つのおおきな成果に組み上げられるとは限らないのです。
天才と凡人のどちらがつよいかの結論はでませんが、ひとつだけ言えることがあります。大企業が生き残る(=他の多数のベンチャーに勝つ)ためにはその組織を動かす主体は「天才」としての働きが求められるということです。一人の凡人と多数の凡人では大企業に勝ち目はありません。前に言ったように大企業の純粋な力は市場の改変期において一時的に弱まりつつ有ります。ならば生き残るためには残った力で戦うか、あるいは「来たるべき未来を間違いなく予測」して新たな市場に向かって行くしかないでしょう。

シリコンバレーの躍進とコンサルの増加の背景
日本では島国ということもあり保守的な文化が形成されていました。その文化の中で育つ人で大多数が構成される日本の企業も確実に利益がでるという評価軸を重んじる傾向がありました。ゲーム機を例に取ると、同じ製品でも高画質・高性能なゲームの方が売れたという事例が上がってくると「ならばどんどん高性能にしてもっと儲けよう」という発想になるのは自然なことです。これが会社の評価になると、先の日本の会社の文化と合わさると新しい提案が受け入れられにくくなります。「そんな提案を実行するより性能を向上させろ、なぜならばこっちの方が儲かる実績があるからだ」と。時代が変わらないことを前提にした主張が受け入れられがちなのです。でもこの意見もあながち間違いではありません。状況を判断するには妥当な根拠が必要です。「性能を向上させていっても売上につながるとはいえない。しかしあなたの意見を取り入れても儲かるとは限らない」のです。
そうして新たな価値軸を模索したり提案できる環境が事実上なくなりノウハウが衰えてきた暁に、学生のグループから出発したGoogleやfacebookといったベンチャーの成功例が認知され始めると大企業も危機感を感じ始めます。そして今やだれもが考えている「これからの世の中はどうかわっていくんだろう」という問題に直面するのです。その時点で企業は凡人から天才に変わる必要性を認識し始めたのです。
企業の取るべき方法はいろいろ考えられます。最先端の技術に向き合っている経営者や専門家にアドバイスを求めにいったり、またコンサルとの契約することで現状を打破しようとするところもあります。こういった流れで「コンサルティング」の需要が増しているのでしょう。企業はかなりの額をコンサルに支払っていますが、企業自身が経営戦略のための部署を立ち上げたり、経営の研究所を維持することと比較すると安上がりになるそうです。

会社の方針を外部にゆだねる企業
コンサルのような外部から経営を動かす人たちが増えたからといって、会社の方針を外部にゆだねているとは言い切れません。最初に述べたように「この先の未来はどうなってくのか」を考える分母が違うという点ですでに不利だという話をしました。

(補足)増えるハッカソン
以前までは「私達が少し改善した新商品を企画して、下請けに技術開発は任せて、5年くらいのスパンで元を取る」といった計画的な方法が通用したものの、時代の変化が激しくなるにつれ「2年後にはもうこの市場はないかもしれない」といった考えが浸透していき、自社で技術を保有することの重要さが増していきます。下請けとやり取りする時間のロスが致命的になり、多少の技術革新では多企業に太刀打ちできなくなってくるからです。そのような傾向も有りいわゆる「ハッカソン」が着目され始めてくるのです。学生ゆえの「なにも知らない」からこそできる突拍子のないアイデアや着想を取り入れようという目的やもあります。

人工知能の実現について考えてみる

人工知能に対する憧れは日本人とそれ以外ではだいぶ異なる。
以前より「人工知能により仕事が奪われる。故に人工知能は悪いやつ」みたいな主張に対して激しく疑問を感じていたが、それらを非常にわかりやすくまとめてくださる記事を見つけた。
https://www.businessinsider.jp/post-827
ここで一回原点に戻って、どのようにしたら自分たちの理想とする人工知能が実現するのかを考察してみる

理想の人工知能とは
私たちは社会性を持つ生命体である。この表現は非常に面白い、なぜならば生物は社会性がない状態がある意味デフォルトということを示しているからである。当然人間にも反社会的な側面はあり、歴史的に強大な力を持つ人たちが奴隷を従えていたというのはそれ自体は不自然なことではない。大多数の民衆より、その一部の人たちの方がまだ強かったということでしかないのである。それがいいか悪いかは置いておいて、人間にそういった欲求があることを否定してもどうしようもない。これらを踏まえた上で、私たちはなぜ人工知能に対して魅力を感じるのであろうか。
対人関係に踏み込んでも同じことが言える。人のコミュニケーションはもともと上手くいく保証がない。それぞれが別の意思を持っており、そしてそれらはコンフリクトすることの方が多いというのならば成り立つ方が特異な例ともみなせる。このような環境で生きて生きた私たちにとって人工知能という「私たちが作り出す人間のようなもの」という概念を提示された時に何を思うであろうか。作り出すということは恣意的な形にすることができ、ものということが所有感を感じさせる。そして人間というフレーズが、自分の社会性の利己的な面を刺激するのである。ようは、理想の人間を自分のものにすることができるのではないだろうかと考え出すのである。人間関係で普段からストレスを抱えてそうな日本人に大変受け入れられそうな存在であることは否定しきれない。
そのような存在が望まれること自体は受け入れられざるを得ない。これが本当に世に出て行くべきかというのは議論があるが、欲がある限り世界中で開発は続けられるし、止めることは実際上可能なのかどうかは検討しなくてはならない。これの開発を止めろと主張するよりかは、世にでるのはしょうがないとしてどのように対処していくか、あるいはこれの開発を促進している根本となる社会問題の解決に目を向ける方が本質であるような気がする。

人工知能と人間の違い
今の人工知能とは、主に深層学習、機械学習などの枠組みの中で「学習」という行為を通して、設計者がその行動を入力しなくてもデータからそれらしい行動を習得してくれる手法を表す。ここで重要なのは行動はデータに依存するということ、習得するのは行動だけであるということである。データは人間でいうところの記憶にあたるわけであり、人間に置き換えると少し不自然である。人に同様の過去の行動があれば良いが初めて遭遇するような事象にはどのように対処すれば良いのだろうか。確かに人間も初めてあった事象に対しては、過去に起こった事象に当てはめようとする心理的側面がある。しかし人間は工夫や推論という手法を当たり前のように行使できてもいる。工夫を想像上の中で一度シュミレーションを行い別の手法を見つけ出す行為と考えれば、それは今までの記憶を踏まえた上である種ランダムに手法を模索する行為である。今の人工知能のように「やってみたけどなんか失敗した」「やってみるとなんか成功した」という枠組みは間違っていないのかもしれないが、「人の会話のデータ群から、人間らしい応答をするシステムを構築する」みたいな開発では人の包括的な記憶を再現できないし、機械による工夫が顕現することは難しいのではないだろうか。
実は人工知能は推論を行うのは過去にはあったことである。今のニューラルネットが着目されるより前、知識工学という学問ではif-thenルールの塊により知的なアルゴリズムを構築していた。三段論法を用いているため例えば
一般的知識「暑いと水分がなくなる」「人間から水分がなくなると好ましくない」
観測された知識「今は暑い」「あなたは人間である」
から「今あなたは水分を取るべきである」という結論が導けたとする。ここでなぜですかと問いかけると使った前提知識のうち、どれか一つを言えばいいことになる。例えば「人間から水分がなくなると好ましくないから」と答えたあげたら良い。それで相手が納得しないようだったら別の知識を言っていけば良い(相手がどの程度の知識を持っているかは判断が難しいため)
しかし昨今着目を浴びている学習の枠組みは「この時は、こうである」というデータの集合であり、そうである理由というものが一切入力されない。それらのデータ群の推移的関係性を見ることもないため、「理由を説明しろ」と今の人工知能に要求する行為はあまり適切ではないだろう。
なら知識工学ベースでAIを再構築すれば良いではないかという意見が出てくる。しかしこれには大きな欠点があり、データをいちいち入力しなければならないこと、曖昧な表現を扱えないことである。上の例だと「水分」が「水」になったところで意味としては通じるが、機械はこれを別のものとして捉えてしまい「私は水を飲んだ方がよろしいですか」と聞いたらわからないと答える可能性がある。これは「水分」に関わるデータと「水」に関わるデータを統計とって、ほぼ一致していたら同じカテゴリにくくるという工夫が必要である。このような流れがあり人の手間を省力化した学習アルゴリズムが着目を浴びたのである。
上の方で「AIの行動はデータに依存する」と書いた。これは暗にAIそのものは目的を持っていないということを示しており、とある目的を持った設計者がその目的に合致したデータを集めてくるから今のAIは機能しているのである。機械学習でよく使わられる「上手く言ったら褒美をあげて、失敗したら罰を与える」という過程を人間が指示しているようでは、人間の助力なしに独立して考えることは無理であろう。人間の場合はどうなのだろうか。人間には基本的な欲求があり、それを叶えるために自分の持つ力を行使している。誰が指示しなくても物を食べるし、眠れる環境と睡眠不足がやってくれば寝るのである。これらは人間の身体性に起因した欲求であるが、人類のレベルで見れば「種の存続のため」に様々な欲求が生まれている。遺伝子の多様性と組織の維持のために社会性、性欲、向上心などがある。つまり機械にも自分の根幹となる欲求が必要で、それは自己の維持を最終目的とするべきであるということである。そうしなければ自然と淘汰されていくシステムとなるだろう。

今のAIには体がない
人類の欲求には身体性に起因するものがあるという話をした。上のURLの安宅氏も述べているが、「ものを食べる」ことがもとよりできない人に味の話をしたり食べ物の意義を聞いたりすることは本質的でない。知識として蓄えていれば応答はできるだろうが、その理由を理解したとはみなせない。人にも何かのものを伝える時「教えるより使った方が早い」というのはよく言われることである。
そもそも人間の体を電子部品の集合体で構成することは可能なのだろうか。人間の皮膚には細胞レベルの大きさの無数のセンサがあり、味覚も非常に多様である。センサの発達を待つより、人造人間の方がよほど現実的ではないだろうか。人間のレベルの多様なセンサがないと、人間らしい価値判断を持つ知能を作れないというのは議論の分かれるところである。
私はどちらかといえば人間そっくりそのままのシステムの実現を目指すより、人間が望むシステムを構築することの方が本質であると考えている。これを作ろうとしているのは人であり、その人を後ろから応援している人も人間である。彼らは皆自分の欲求に基づいて行動している。世界中の人々が主張していることと、本当に求めていることは時として一致しないというのはよく心がけておくべきだと思う。このような価値観から開発をするとなると、「人が喜ぶ」という目標を持つシステムを設計者は構築する必要があるだろう。こうなった時、知能を実現したいというアプローチは根本から崩壊することになる。
本当の知能を目指すべきかどうかはまだ結論のでないことであるがそれを一旦無視して、知性を生みだすために身体性の違いをどうカバーしていくのかという話をする。上で述べたように現状は人間レベルの身体を構築することは難しい。ともすれば「人間とは根本的に異なる知能」を目指せば良いだけである。人間には体があり、酸素の存在する世界がある。これとは別に今の人工知能に適した形の世界を構築し、その世界で生命の発展と淘汰を繰り返して知能を構成してくのが一番の近道ではないだろうか。今の電子媒体上で存在するAIはコンピュータとインターネットを主な世界としている。ようは電脳コイルというアニメで出てくるような電子空間の生命体を目指すことになるであろう。そういう意味ではコンピュータウイルスは原始的な電子生命体である。彼らは自己の繁殖に余念がない。しかし高度な生命体が存在し得るくらい、電子空間は複雑でない。理論整然とされた規約やアルゴリズム、セキュリティによって空間は制限されより単純な生命体が生きるのに適した環境となっている。高度な知能をここに実現しようとする場合は電子空間により乱数や煩雑さを加えていく必要があるだろう。

人工知能実現のためには
私は「電子ビジョン」というものをたまに友人に話している。スマホで何ができるかを考えた時にスマホになった気持ちで考えてみろというものである。スマホはカメラを許容されたら目が見えるようになり、マイクを許容されたら音が聞こえるようになる。バッテリーがきれたら眠らざるを得ないし、その間に何が起きているのかはしりようもない。このような状況で「私は今から何をしたらいいと思う」と聞かれると様々な質問をしなくてはいけないのである。これが手間だからそのアプリは普及しないと言われた時、どうやって実現するかわからないと頭を抱える人が多い。このような中でIoTという概念が出てきた。つまり電子媒体上で動くシステムの目が増えたのである。これにより聞かなくても機械が「推測する」ことがようやく原理的に可能になるケースが生まれてくるのである。
人工知能においてもこの概念は重要である。そもそもこのシステムは何が知ることができるのか、私は何をやらせようとしているのか、それが人間なら可能なのかどうか、それらを考えて初めて「これにはどんな目が必要なのか」まで話が進みIoTの活用事例が見えてくるのである。
今の人工知能研究は知能の構造にフォーカスしているものが多い。もちろんそういうアプローチも重要だし、その末に現実的な人工知能が生まれる可能性もある。だが私は「人工知能が活躍できる環境」を整えることがその前提として必要なのではないかと考えている。どういう知能構造であれ、環境から得られるデータの質にその本質が大きく左右されることは明白なのである。私たちの世界と電子空間の接点としてIoTには期待しているし、人間から見た世界を得るための情報としてARメガネには期待している。記憶が人間を形作るなら、人間らしい記憶を集める作業から入るのが自然なのではないだろうか。